豊前神楽の歴史
一般的に神楽の成立には山伏(修験者)が関わったとされ、当初は山伏が修験道により行う宗教儀礼であったと考えられる。豊前神楽の成立は中世(室町時代;15世紀頃)と考えられ、求菩提山の山伏が関わったと考えられている。その存在が記録に現れるのは江戸時代に入ってから(17世紀初頭)で、山伏が関わっていたことが記されている。江戸時代は社家(神職)によって神楽が演じられたことが古文書で確認でき、出雲神話に基づく演目が登場し、今に伝わる演目も見ることができる。明治時代以降、神楽の担い手は氏子へと受け継がれ、現在の神楽講(6団体)による奉納が確立する。
豊前神楽の演目
または「鬼伝説」の意味
豊前神楽の演目には大きく二つの特徴がある。一つは駈仙(御先)という鬼が登場する演目が多く「駈仙(御先)神楽」をはじめ「神迎え」「乱駈仙(御先)」などが見られ、人気の演目である。いま一つは「湯立神楽」と呼ばれる豊前修験道の影響を強く受けた演目であり、全国に類を見ない演目として国の重要無形民俗文化財の指定を受けるにあたり高く評価された。
「鬼伝説」はこうした豊前神楽の特徴と、山岳修験道の山「求菩提山(国指定史跡)」に伝わる鬼伝説から生まれたもので、荒ぶる鬼とそれを鎮める求菩提山の権現様のやり取りを表現している。
「若楽」発足のきっかけと目的
2004年、福岡県では国民文化祭が開催され豊前市では全国各地からの参加を得て「神楽フェスティバル」が開催された。その折に以前から豊前市内の神楽の伝承に危機感を持っていた若手の神楽舞から、若い人たちに神楽の魅力を伝える手段として“異文化とのコラボレーション”という提案がなされ、大分県庄内町(現;由布市庄内)の庄内神楽が取り組んでいたジャズ神楽をモデルとした取り組みが検討された。その結果、伝統神楽をベースとした創作神楽を目指し、曲もオリジナルの楽曲を制作することとし、日本を代表する音楽家である前田憲男氏(故人)に作曲を依頼した。「邪降神」と名付けられた作品は斬新なジャズの曲と豊前神楽のお囃子に乗せて、若手の神楽舞が激しく舞う独創的なものとなり、国民文化祭で披露され大きな反響を呼んだ。こうして豊前神楽集団「若楽」は衝撃的なデビューを飾った。
さて、ここで確認しておかなければならないのは、「若楽」誕生の過程で絶対的条件であった地元のジャズビッグバンドである「ニュースウィングジャズオーケストラア(NSJ)」と、和太鼓集団「豊前天狗太鼓」の存在である。何れも豊前のアマチュアグループであるが、「若楽」とは言わば三位一体の存在であり、何れかが欠けてもその活動は成立しなかった。豊前の芸術文化を代表するパフォーマンス集団による“異文化とのコラボレーション”はこうして誕生したのである。
なお「若楽」とは若い人が楽しく神楽を演じ、観て楽しむという意味が込められている。